【商いの​コト】けん玉を​好きに​なる​環境を​用意するのが、​僕の​役割。​グローバルけん玉ネットワーク

成功も​失敗も、​すべては​学びに​つながる。​ビジネスオーナーが​日々の​体験から​語る​生の​声を​お届けする​「商いの​コト」。

つなぐ加盟店 vol.69 一般社団法人グローバルけん玉ネットワーク 窪田保さん

これが​自分の​使命だ。

確信を​持って​そう​言える​ことに​出会えている​人は、​どの​くらいいるだろう。

今回話を​聞かせてくれたのは、​けん玉の​世界で​自分の​使命を​見つけた​窪田保さん。

「けん玉の​世界の​コミュニティを​つくって、​それを​引っ張っていける​人は​誰だろう。​俺しかいなくね?って。​自意識過剰なんですけどね。​これを​しなかったら、​死んでも​死に​きれない​くらい​悔しいだろうな」

そのまっすぐな​姿は​とても​清々しく、​話を​聞いていて​気持ちが​いい。

グローバルけん玉ネットワークの​窪田さんに​会いに、​長野県松本市に​向かったのは​初夏を​感じる​暑い日だった。

もっとけん玉の​ことを​知って​欲しい

松本駅から​車で​10分ほど​走った​ところに、​グローバルけん玉ネットワークの​看板が​かかった​倉庫を​見つけた。​なかを​覗くと、​代表の​窪田さんが​出迎えてくれる。

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「小学生の​ころ、​けん玉にの​めり​込んでいた​ことが​ありました。​本に​書いてある​ことを​練習して、​ビデオを​擦り​切れる​ほど​再生して。​だけど​教えてくれる​人も​いないし、​続ける​モチベーションがなくなって。​自然と​離れてしまったんです」

そんな​窪田さんが​けん玉と​再会したのは、​大学1年生の​こと。​柔道部で​練習に​励む​日々を​送っていた​ある日、​ヘルニアで​柔道を​続けるのが​難しいと​いう​宣告を​受けた。

コルセットを​付け授業に​行き、​夕方から​リハビリを​して​家に​帰る​日々。​あまり動く​ことができず、​ふと、​けん玉を​手に​して​遊ぶようになった。

「久しぶりに​やってみたら、​やっぱり​楽しいんですよね。​当時ようやく​普及しは​じめた​インターネットで​調べてみたら、​知らない​技が​たくさん​あって、​近くで​練習会が​開かれていて。​どきどきしながら​行ってみたら、​ガチな​人たちが​いっぱいいるわけですよ。​自分よりうまい​人が​こんなに​いるんだって、​ショックでしたね」

これを​きっかけに、​けん玉の​世界にの​めり​込んでいく​ことになる​窪田さん。

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けん玉に​夢中になると​同時に、​周りの​人が​抱いているけん玉への​イメージが​気に​なるようになった。

「けん​玉って​昔の​遊びで、​黙々と​一人で​やる​ものだと​思われている​ことが​多くて。​僕は​楽しいと​思っているのに​周りから​ダサいって​思われているのが、​すごい​悔しかったんですよ」

「もっとけん玉の​ことを​知って​欲しい。​素晴らしさを​発信したいなって​いうのが​僕の​なかで​生まれた​テーマでした」

けん玉の​楽しさを​知って​もらう​ため、​思いつく​ことはとにかく​挑戦してみたと​いう。

けん玉サークルを​立ち上げたり、​けん玉教室を​開いたり。​文化交流の​ために​モンゴルに​行って​披露したり、​ヒッチハイクで​日本一周を​しながらけん玉を​教えて​歩いた​ことも。

「車に​乗せて​もらったり、​飛び込みで​行った​学校で​教える​時間を​もらったり。​みんな​すごく​優しくて、​世の​中いい​人​いっぱいいるんだなって。​ぜんぶ、​けん玉が​つないでくれた​縁なんです」

大学を​卒業して​向かったのは​アフリカ。​青年海外協力隊と​して​現地で​理科を​教えながら、​けん玉で​子どもたちと​遊ぶ​日々を​過ごしたそう。

けん玉で​世界を​つなぐ

帰国したのは​2006年の​こと。​ちょうど​SNSや​YouTubeが​広がり始めた​時期だった。​窪田さんは​通信制の​学校で​先生を​しながら、​けん玉を​続けていた。

「そのころから、​世界的な​広がりが​目立ってきて。​アメリカや​ヨーロッパの​オシャレな​奴らがかっこいい技を​SNSで​公開して。​自分たちで​メーカーを​立ち上げたり、​イベントを​開催していて。​最初は​外国でもけん玉やる​人が​出てきたんだなって​見ていたら、​どんどんムーブメントに​なっていくんですよ」

けん玉の​イベントで、​DJが​音楽を​流すなかで​プレイして​どんどん派手な​技を​きめていく。​それを​見ている​ファンが​盛り上がり、​憧れの​存在と​して​人気者に​なっていく。

画面を​通して​伝わってくる​様子は​とにかく​楽しそうで、​とてもまぶしかった。

「日本のけん​玉って、​良くも​悪くも​伝統的な​感じで。​伝統を​大切に​しているからこそ​残っていたけれど、​だから​こそ広がるのが​遅かったんですよね」

「アメリカとか​ヨーロッパの​やつらは、とにかく​楽しそうなんですよ。​彼らと​友だちに​なりたいって。​世界の​仲間に​入って、​けん玉が​生まれた​国の​日本人と​して、​世界を​つなぐような​活動を​したい。​世界大会も​やりたいって​思うようになりました」

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そう​考えた​窪田さんが​2012年6月に​立ち上げたのが、​一般社団法人グローバルけん玉ネットワーク。​教員の​仕事も​やめ、​この​道1本で​生きていく​ことを​決めた。

不安な​ことは​なかったのだろうか。

「前の​仕事は​充実していたし、​お金だけを​考えたらもっと​いい​仕事が​あります。​でも、​けん玉の​世界の​コミュニティを​つくって、​それを​引っ張っていける​人は​誰だろう。​俺しかいなくね?って。​自意識過剰なんですけどね。​これを​しなかったら、​死んでも​死に​きれない​くらい​悔しいだろうなって」

「当時は​僕も​トッププレイヤーの​1人でした。​伝統を​大切に​してきた​世代や、​現役プレイヤーである​10代20代を​つなげる​ことができる。​いい​職人さんとも​関係が​あるし、​今の​僕ならって​いう​思い​切りが​あった​ことと、​うまく​できるって​いう​自信が​あったんでしょうね。​」

メーカーと​協働で​いいけん玉を​開発したり、​教室や​大会を​開いたり。​これまでの​関係を​頼りに、​挑戦を​続けていった。

すべての​ことが​早かった

初めてけん玉ワールドカップを​開催したのが、​独立から​2年後の​2014年の​こと。​けん玉発祥の​地と​して​知られる​広島県廿日市市​(は​つかいちし)​で​開いた​大会は​大成功。​その後も​1年に​1度開催し続け、​今年で​6回目の​開催を​迎える​ことになった。

昨年は​415名が​出場。​うち95名が​海外勢。​18カ国から​集まって、​けん玉の​大会と​しては、​世界で​1番​大きな​イベントに​なっている​そう。

今は​けん玉が​好きで​集まってきた​仲間4人とともに、​日々忙しく​働いている。

「サラリーマンで​働く​ことと、​事業を​回すって​いうのは​まったく​別の​ことで。​正直、​思った​通りには​いかない​ことがたくさん​ありました。​僕が​予想していたよりも、​すべての​ことが​早かったんです」

流れが​大きく​変わったきかっけが、​日経トレンディの​「2014年ヒット予測ランキング」。​トップ10に​けん玉が​入ると、​ひっきりなしに​取材を​受ける​ことになった。

けん玉は​売れるし、​けん玉ワールドカップは​注目を​集める。​ブームが​やって​来た​ことで、​うれしい​悲鳴を​あげたくなるような​日々が​続いていた​そうだ。

一方で、​ブームに​なる​ことで​覚えた​違和感も​あった。

「とにかく​『けん玉』​そのものではなく、​『ブーム』と​いう​現象に​ついて​メディアで​注目される。​けん玉コミュニティの​実態を​超えて​『街中で​若者がけん玉を​しています』みたいな​記事が​多い​ことには​正直困惑さえ​ありました。

記事を​見てけん玉を​始める​人が​いても、​それを​支える​仕組みが​未成熟だったので、​多くの​人は​けん玉を​手放すことになったと​思います。​起こった​ブームを、​完全に​沈静化させないために​どう​すれば​いいかが、​目の前の​大きな​課題に​なったんです。​メディアの​過熱に​よる​『ブーム』が​きっかけで、​今のけん玉に​ついて​知ってくれる​人が​爆発的に​増えた​ことは、​本当に​ありがたい​ことだったんですけどね」

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ブームの​良い​影響が​後押しした​ことも​あり、​窪田さんたちが​開催していたけん玉ワールドカップの​進化も、​想像以上の​速度だったと​いう。

「その後のけん玉の​進化の​スピードは、​各段に​スピードアップした​気が​します。​技の​進化も​すさまじく、​それに​合わせて​形状や​塗装技術の​改善など、​けん玉自体の​進化も​早かった。​数か​月に​一度の​ペースで​世界中のけん玉メーカーが​新製品を​出すんですよ」

「進化する​ことは、​もちろん素晴らしい​ことです。​年々、​けん玉ワールドカップに​来日する​海外選手や​国内の​選手も​増え続け、​レベルも​上がり続けました。​いまや​決勝ステージで​決まる​トリック​(技)は、​経験者から​すれば​信じられないような​動きで、​技が​決まるたび歓声が​起こります。

だけど、​けん玉の​テクニックを​知らない​人から​見れば、​正直『何を​やっているのか分からない』レベルに​なっているんです。​当初は​見て、​かっこいい、​はじめてみたいって​思う​人が​多かった。​今や​もう、​技が​高度に​なりすぎて、​ステージで​やっている​人は​特殊な​人なんだって​感じちゃう​人も​多いんです」

「スポーツと​しては、​オリンピックの​競技に​なりたいと​いう​目標が​あります。​でも​一方で、​小学生から​年配の​人まで​気軽に​できる。​スポーツでは​あるけれど、​誰もが​楽しめる​遊びでもある。​これがけん玉の​いい​ところなんですよね」

みんなに​好きに​なって​もらいたい

ここで​生まれた​違和感を、​窪田さんは​そのままに​は​しなかった。

2018年に​立ち上げたのが​「けん玉検定」と​いう​プロジェクト。

けん玉の​一般的な​技よりも、​さらに​やさしい​技を​用意して、​クリアすると​シールや​合格証が​もらえると​いう​もの。​全国各地に​300人以上いる​「けん玉先生」が、​挑戦する​人を​見守る​役割を​担っている。

「けん​玉って、​日本では​良くも​悪くも​伝統的な​玩具と​して​知られているので、​はじめて​触るのは​4才、​5才くらいの​ことが​多いんですよ。​小学校低学年の​教科書にも​伝統の​遊びと​して​出てくるんです」

ところが​まだ​バランス感覚や、​運動感覚が​未成熟なうちに​挑戦する​ために、​技が​できず、​嫌に​なって​離れてしまう​ことが​多いと​いう。

「せっかく​日本人の​大半が​けん玉に​触れる​機会が​あるのに、​続ける​人が​一部しかいないのは、​けん玉を​触る​年齢と​教える​システムが​ちゃんと​していないからなんです。​実は​けん玉は、​バランス感覚や​運動能力の​基礎が​楽しみながら、​自然と​身に​つく​遊びでも​あるんですよ」

「できた!って​いう​嬉しさを​大事に​したくて、​誰でもできる​ステップアップの​ルートを​用意しました。​けん玉先生を​養成する​講座も​開いて、​どんどん増や​していこうと​している​ところです」

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「難しい​技は​できなくても、​けん玉に​触れているのが​楽しく​感じる。​それで​いいんですよ、​けん玉は。​とにかく​好きに​なって​もらいたくて、​これを​つくっているんです。​もっと​極めたくなったら、​いくらでも​上の​世界を​僕らが​準備して​あるから」

「やっぱり​新しい​人たちが​入って​こないと、​業界と​して​ストップしてしまうと​思うんです。​教えて​もらえる​環境が​ある、​仲間が​できるって​いうのは、​実は​1番最初に​僕が​欲しかった​ものなのかもしれないですね、​子ど​もの​ときに」

オフィスの​壁には、​けん玉を​通して​出会った​友人の​写真、​全国から​送られてくる​手紙などが​大切に​飾られている。

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「これからけん玉を​好きに​なる​人たちが​やりたいと​思ったら、​できるように​整えて​あげる。​そういう​仕組を​残すのが、​僕の​役割かなって​いうのは​いつも​思っています」

窪田さんの​眼差しは、​これまでと​変わらず、​まっすぐ​将来を​見据えている。​その芯に​あるのは、​自分の​使命だと​信じた​ことを​手放さずに​走り続けた​強さのように​感じた。

窪田さんが​子ど​もの頃に​欲しかった​世界は、​着実に​かたちに​なり、​これからも​広がり続けていく。

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文:中嶋希実
写真:清水美由紀