【商いの​コト】たった​3台の​鳩時計から、​都内に​専門店を​構えるまでの​15年の​軌跡

成功も​失敗も、​すべては​学びに​つながる。​ビジネスオーナーが​日々の​体験から​語る​生の​声を​お届けする​「商いの​コト」。

つなぐ加盟店 vol. 26  森の​時計芹澤鳩さん

「好きな​ことを​仕事に​したい」

こうした​思いを​抱きながら働く​人は​多く​いるのではないだろうか。​
1日の​大半を​働いて​過ごすのだから、​自分の​好きな​ことに​熱中したい。​これは​当然の​心理だろう。

それでもなお、​好きな​ことを​して​生計を​立てる​人が​少数なのは、​相応の​リスクを​伴うからだ。​「果たしてお金を​稼げるのだろうか……。​」​そんな​不安に​押され、​一歩を​踏み出せない​ケースは​決して​珍しくない。

今回は、​「鳩時計」に​生涯を​捧げる​男性を​紹介する。

鳩時計の​販売と​修理を​手がける、​「株式会社森の​時計」の​代表取締役・芹澤鳩さんだ。​自らの​ペンネームを​「鳩」に​してしまう​ほど​大の​鳩時計好きである​芹澤さんは、​どのように​鳩時計と​出会い、​今の​仕事を​始めたのだろうか。

110台以上の​ドイツ製鳩時計が、​中央区日本橋に

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中央区日本橋。​衣料品の​問屋で​賑わう​通り​沿いの​ビルに、​森の​時計は​店を​構える。​店内に​入ると、​壁一面に​鳩時計が​かかっている。​数は​合計で​100台以上にもなるのだそう。

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商品の​鳩時計は​芹澤さんが​年に​1回ドイツに​足を​運び、​自身の​目で​見て​厳選している。​職人との​コミュニケーションを​とても​大切にし、​ドイツ滞在中、​どの​工房でも​必ず​1日は​職人と​一緒に​働くようにしているのだそう。​そのため、​海外では​芹澤さんが​製作に​関わった​鳩​時計が​店頭に​並んでいる。

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職人との​信頼関係は​厚く、​彼らに​対して​要望を​言う​こともある。​上の​商品は、​芹澤さんが​ドイツの​職人に​「絶対に​売れるから​作って​ほしい」と​頼み込んで​作って​もらった​鉄道の​鳩時計。

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トンネルが​家の​中を​通るように​作られているなど、​細部に​こだわりが​見られる。​芹澤さんと​職人の​信頼関係に​よって​生まれた​特別な​商品だ。​現在では​森の​時計の​人気商品と​なっている。

それでは、​芹澤さんが​鳩時計と​出会った​大学時代まで、​時間を​巻き戻してみよう。

すべてのは​じまりは、​20歳の​ときの​ヨーロッパ旅行

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芹澤さんが​鳩時計屋を​はじめる​ことになったきっかけは、​学生時代に​遡る。​20歳の​とき、​1人で​ヨーロッパを​旅行した​芹澤さんは、​ドイツで​鳩時計との​運命的な​出会いを​果たす。

「僕は​それまで​鳩時計を​見た​ことがなかったので、​衝撃を​受けました。​『こんなに​楽しくて​可愛いインテリアが、​なんで​日本には​ないんだ』と。​鳩時計との​出会いには​運命的な​ものを​感じました。​ですが、​その時は​まだ仕事に​なるなんて​思っても​いませんでしたね。​」

その後、​芹澤さんは​就職活動期を​迎えるが、​やりたい​ことが​見つからず、​大学卒業後は​アルバイトを​して​生活していた。​どこかで​この​生活にも​区切りを​つけなければ。​そう​考えた​芹澤さんは、​興味が​ある​ものを​掘り下げる​旅、​すな​わち、​鳩時計工房を​巡る​旅を​しようと​思い立った。

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旅が​終わったら、​企業に​就職しよう。

そう​思って​始めた​旅だったが、​ここで​再び運命的な​出会いを​果たす​ことになる。​今でも​お付き合いの​ある​工房の​会長さん宅に​ホームステイを​する​ことになったのだ。​鳩時計を​作る​憧れの​職人との​生活。​気持ちは​高ぶる。

「僕は​いつか​鳩時計を​日本で​売りたい。​その​時には​協力してくれませんか?」

高揚の​あまり、​芹澤さんは​思わず​こう​口に​してしまった。​もちろん​それは​“いつか”の​話。​今すぐに​やろうとは、​微塵も​思っていなかったと​芹澤さんは​当時を​振り返る。​しかし、​会長は​すぐさまカタログを​広げ、​「OK。​どれを​持っていくんだ?」と​聞き返したと​いう。

「僕は​someday​(いつか)と​確かに​言ったは​ずなんですけど…​聞こえていなかったみたいです​(笑)。​僕の​ことを、​“日本で​店を​開く​ために​ドイツに​来た若者”と​勘違いしていたんでしょうね。​ホームステイを​させて​もらっていた​手前、​引くに​引けずに、​結局​3つ鳩時計を​買うことになったんです。​鳩時計は​最低でも​1万円以上し、​高い​ものだと​30万円を​超える​ものまで​あります。​僕は​そんな​大金を​現金では​持っていなかったので、​クレジットカードで​購入しました​(笑)。」

買ってしまったからには、​売らなければならない。​こうして​突然、​芹澤さんの​“鳩時計屋”と​しての​キャリアが​始まった。

手探りで​ホームページを​作り、​初めて​鳩時計を​売った

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偶然の​出会いから、​鳩時計を​売る​ことになってしまった​芹澤さん。

「この​鳩時計を​売らないと、​クレジットカードの​支払いが​できない。」

焦っていた。​どう​やって​売るかと​いう​アイデアは​全くなかったが、​とり​あえず​ホームページを​製作し、​商品を​掲載してみた。​すると、​クレジットカードの​支払い​期限ギリギリの​タイミングで、​ホームページを​見た​人から​問い​合わせが​来た。

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「この​時計を​買うには​どうしたら​いいのですか?」

言われてみると、​自分の​作った​ページには​商品の​写真と​価格が​載っているだけ。​振込先も​書かれていないし、​そもそも​誰が​売っているのかも​分からないような​怪しい​サイトだった。​そこで​初めて、​宅配業者の​代引き契約の​存在を​知り、​少し​ずつ販売体制を​整えていった。

「売れたのは、​1番安い​1万5千円くらいの​ものでした。​初めて​鳩時計が​売れて​ものすごく​嬉しかったですね。​ひょんな​ことから​鳩時計を​売る​ことに​なりましたが、​これから​鳩時計屋と​して​生きていくのも​いいんじゃないかと​思うようになったんです。​」

周囲の​評価は​決して​高くなかった。​しかし、​気にはならなかったと​芹澤さんは​語る。

「『たった​1万5千円の​売上で、​どう​やって​生活していくつもりだ』と​言われてしまいました​(笑)。​でも、​今月1台しか​売れなくても、​来月には​2台に​なるかもしれないし、​いつか​10台売れるような​日が​来るかもしれない。​僕の​眼前には、​希望が​広がっていました。​」

商品が​売れない​挫折を​経験。​克服の​カギは​“自分に​合った​販売スタイル”

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アルバイトで​生計を​立てていた​芹澤さんは、​鳩時計が​売れた​ことに​よって​得た​お金を、​すべて​次の​鳩時計を​買う​資金に​した。

人との​縁が​次第に​積み重なるうちに、​芹澤さんに​鳩時計を​売る​好機が​訪れる。​「デパートの​催事に​出ないか」と​いう​誘いだ。​同じ​ドイツ製の​テディベアとの​コラボイベントで、​1週間展示販売が​できると​いう。

当時インターネットしか​販路が​なかった​芹澤さんに​とっては、​またとない​機会。​喜んで​名古屋に​向かったが、​そこで​挫折を​味わう​ことになった。

「商品が​売れない。」

隣で​販売している​テディベアの​店は、​1週間で​180万円もの売上を​あげていた。​一方​芹澤さんの​鳩時計はと​いうと、​たったの​11万円。​テディベアの​10分の​1にも​満たない​売上だった。

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「とても​悔しかったですね。​全く​同じ​条件で​売っているのに、​こうも​差が​出てしまう​ものかと。​僕は​それまで​ネットでしか​売った​ことがなかったので、​お客様に​どう声を​かけていいかすら​分からない​状態でした。​」

このままでは​いけない。

幸いな​ことに、​その後​催事には​定期的に​呼んで​もらえるようになっていたので、​芹澤さんは、​隣の​店が​どのように​商品を​売っているのか観察する​ことにした。​すると、​商品を​たくさん​売っている​人には​ある​共通点が​ある​ことに​気づいた。

「デキる​販売員は、​みんな​“自分の​販売スタイル”を​持っているんですよ。​真摯に​応対する​キャラクターの​人も​いれば、​ちょっと​おちゃらけた​雰囲気で​お客様の​心を​掴んでいる​人も​いる。​僕も、とにかく​場数を​踏んで​鳩時計に​合った​販売スタイルを​確立していこうと、​その​時決意しました。​」

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鳩時計を​見に​来る​人は、​迷いながらも​結局​買わずに​帰ってしまう​人も​多かった。​そのことに​気づいた​芹澤さんは、​“お客様が​何に​悩んでいるのか”を​徹底的に​考え抜くようにした。​幾度となく​接客を​重ねる​うちに、​次第に​お客様が​何に​悩んでいるのか、​分かるようになったと​芹澤さんは​語る。

「“お客様が​鳩時計を​使いたい​シチュエーション”に​応じて、​的確に​商品を​紹介する​ことで、​お客様が​購入を​決めてくれる​割合が​多くなりました。​ドイツに​行って​実際に​商品を​見て​選んだり、​現地の​職人と​コミュニケーションを​とったりする​ことに​よって、​商品知識が​豊富に​身に​ついたのが​良かったのだと​思います。​」

生活の​ために​続けていたアルバイトも、​鳩時計の​販売を​始めてから​3年ほどで​辞め、​鳩時計屋と​しての​売上だけで​生計を​立てられるようになった。​「実際に​鳩時計を​見たい」と​いう​声に​応える​ために、​2010年には​実店舗を​オープン。

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「鳩時計の​鳩って、​面白いことに​出てくる​ときも​引っ込む​ときも​ずっと​前を​向いているんです。​後ろを​振り返らずに​前進し続ける​自分の​姿勢は、​鳩時計と​同じだなって​思っています​(笑)。」

ひたすら前を​向き、​15年かけて​地道に​積み上げてきた​ものは​大きい。​芹澤さんは、​現在の​仕事に​対して​不安は​全くないのだそうだ。

森の​時計を​“本物の​”鳩時計専門店に​してくれた、​年配男性との​出会い

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“​これまでの​お客様の​中で​印象に​残っている​人は​いるか”

そう​問うと、​芹澤さんは​鳩時計の​修理を​依頼してきた​ある​年配男性の​話を​してくれた。

ホームページを​立ち上げてまだ​2年ほどしか​経っていない​ときの​こと。​
当時は​まだ、​電池式の​鳩時計の​販売しか​やっていなかったが、​手巻き式鳩時計の​修理の​依頼が​後を​絶たなかったのだそう。​そのため、​話を​最後まで​聞いては​「申し訳​ありません、​うちでは​できないんです。」と​お断りしていた。

その日も、​いつ​ものように​修理依頼の​電話が​鳴った。​手巻き式の​鳩時計を​直して​ほしいと​いう​依頼。​いつ​ものように​話を​最後まで​聞いてから​お断りする。​すると、​電話の​向こう側で​年配の​男性は​こう​言った。

「森の​時計さんでもだめですか……。​いろんな​ところを​回ったのですが、​どこも​直せないと​言われてしまって。​これは​もう、​捨てるしかないですね……。​」

捨てる?​
修理は​他の​店で​できる​ものだと​思っていた​芹澤さんは、​そこで​初めて​国内では​鳩時計を​修理できる​場所が​極めて​少ない​ことを​知った。​うちで​直せなかったら、​鳩時計は​捨てられてしまうのか。

その瞬間、​芹澤さんは​とっさに​「うちに​持ってきてください。」と​男性に​言ってしまったのだ。​もちろん、​直せる​保証など​どこにもない。

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実際に​鳩時計を​見てみると、​やはり​構造が​複雑で​どこが​問題なのか​全く​分からなかった。​しかし、​近々ドイツの​工房を​訪れる​予定が​あった​芹澤さんは、​「少しの​間、​預から​せてください。」と​男性に​伝えた。

預かった​鳩時計を​スーツケースに​入れ、​ドイツへ。​“もう​これは​直らないのではないか”と​いう​諦めの​気持ちが​強かったが、​職人は​見事に​時計を​元通りに​直してくれた。​ドイツ製の​鳩時計は​昔から​作りが​変わっていないため、​直せない​ものは​ないのだと​いう。

帰国後、​すぐに​男性を​店に​呼び、​鳩時計を​動かしてみる。

「ポッポー」

時計は​ちゃんと​動いてくれた。​よかった。​ほっと​して​男性の​方に​目を​やると、​ハンカチで​目を​おさえていた。​泣いていたのだ。

突然の​ことに​驚き、​どうして​泣いているのかと​問うと、​男性は​こう​答えた。

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「これは​妻と​海外旅行に​行った​ときに​買った、​思い出の​時計なんです。​でも​私が​おかしな​ところを​いじってしまったせいか、​動かなくなってしまって。​『直して​もらいたい​ね』と​妻と​話して、​いろんな​ところに​行って​見て​もらったんですけど、​どこもだめでした。​そう​こうしている​間に、​妻が​数年前に​亡くなってしまったんです。​なんとか​妻の​思いを​叶えて​やりたいと​思っていたので、​直してくれて​本当に​嬉しい。​ありがとう​ございます。​」

話を​聞き終わると、​芹澤さんは​自然と​涙を​流していたと​いう。​この​男性との​出会いに​よって、​鳩時計は​時間だけでなく​“思い出を​刻む”ものだと​いう​こと、​そして、​自分が​今まで​鳩時計専門店と​しての​仕事を​半分もできていなかった​ことに​気づかされた。

そこから​芹澤さんは、​独学で​手巻き式鳩時計の​修理の​仕方を​身に​つけた。​これまでに​直してきた​鳩時計の​数は、​300台以上にも​及ぶと​いう。​芹澤さんは、​年配の​男性との​出会いを​振り返りこう語る。

「鳩時計の​修理を​するようになって​初めて、​鳩時計専門店に​なれたような​気が​します。​鳩時計の​修理は​その​時計に​刻まれた​思い出の​修理。​この​男性との​出会いは、​森の​時計に​とっての​大きな​転機と​なった​かけが​えの​ない​出会いで、​本当に​感謝しています。​」

デジタルばかりの​世の​中に​アナログを

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鳩時計の​魅力は、​アナログでのんびりと​した​雰囲気が​ある​ところだと​芹澤さんは​語る。

「今の​世の中は​デジタルな​もので​溢れていますが、​人間自体は​とても​アナログな​存在です。​だから、​すべてを​デジタルに​支配されてしまうと、​息が​詰まってしまうと​思うんです。​そんな​ときに、​家の​中に​1つでも​アナログな​ものが​あると、​私たちの​心を​落ち着かせてくれる。​デジタルな​ものが​当たり前に​なっている​社会だから​こそ、​鳩時計は​魅力的な​ものなのではないかと​思います。​」

便利さを​追求すればする​ほど、​そこに​アナログならではの​癒しが​失われてしまう。​
​これは、​効率至上主義の​時代を​生きる​私たちが​見失いが​ちに​なっている​視点かもしれない。

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最後に、​芹澤さんが​今後の​展望に​ついて​聞かせてくれた。

「20歳の​ときには、​こんな​生活を​するとは​考えても​みませんでしたが、​鳩時計に​囲まれた​今の​生活は​とても​幸せです。​欲を​言えば、​もっと​大きな​空間に​鳩時計を​今以上に​たくさん​並べたい。​私が​たまたま​鳩時計に​出会ったように、​この​魅力的な​時計に​出会って​ほしいです​(笑)。​もっと​もっと​鳩時計の​魅力を​多くの​人に​知って​もらいたい。​それが​僕の​願いです。​」

「ポッポー」と​いう​鳩時計の​響きには、​私たちを​日々の​喧騒から​解き​放つ​独特な​魅力が​ある。​生活の​中に​アナログならではの​癒しを​取り入れる​ことも、​デジタル社会を​生き抜く​上では​必要なのだろう。

芹澤さんは、​鳩時計の​虜に​なり、​好きな​ことに​人生を​捧げる​道を​歩んできた。​その道には、​多くの​リスクが​転がっていた​ことだろう。​それでも、​芹澤さんが​現在の​幸せな​生活を​手に​入れる​ことができたのは​なぜか。

それは、​好きな​気持ちに​正直に​ひたすら前進してきたからだ。​失敗を​恐れずに​鳩時計の​ことを​四六時中​考えてきた​結果、​今が​ある。

好きな​ことが​あって、​それを​仕事に​するか​迷っている​人が​いたら、​芹澤さんの​生き方を​参考に​してみて​ほしい。​一歩​踏み出す勇気と、​前進する​心が​道を​切り開いてくれる​ことを​教えて​もらえるだろう。

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森の​時計
東京都中央区日本橋横山町8-5
03-3249-8772
平日10:00〜17:30

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(つなぐ編集部)
写真:小堀将生