文:フヅクエ 阿久津隆

欲望をひとまず口に出してみることは大切なことなんだろう。書き出すのもいいだろう。自分の言葉を耳で聞くなり目で見るなりすることで動き始めることがたしかにある。うっすらとやりたいかもと思っていたことも、それを発し、聞き、あるいは見る。欲望を外に出して、中に入れて、反響させる。その音を聞いてみる。そうすることで、本当にやりたいのか、思った以上にやりたいのか、実はものすごくやりたかったのか、あるいは全然そうじゃなかったのか、わかるところがある。

Squareのインタビューを受けたのは2018年の夏だった。そのときの僕は、次にどんなことに取り組みたいのかという問いに対して「今はその何かがなくって、困っている」と答えている。そう答えながら、ぼんやりと思っていたことをついでのように言っている。「いや本当は、いくつかお店をはじめられたらって思っているのかもしれません」

2019年4月、2店舗めとなる下北沢店を翌年春にオープンさせることを発表した。欲望を口に出してみることは自分の欲望を精査し鍛える点でも有益だが外向けにも大切なことらしく他者の認識も組み替える。欲望の言葉は花粉のようにその言葉を聞くなり見るなりした人のどこかにも舞い落ちて付着して、あるとき、それはすぐかもしれないしずっとあとかもしれないが、あるとき、くしゃみに変わることがある。なんでもない会話の中で「そういえばこんな物件があるんですけどね」という話をうかがって、ほとんどふたつ返事で「やりたいでーす!」と挙手したのだった。

それが2018年の暮れのことで、1年後、2019年の暮れの今、僕はインタビューで話したときよりもずっと強く、はっきりと、フヅクエを増やしていきたい、と考えている。顧みればこの1年は、「フヅクエがいろいろなところにある世界(それはとても豊かな世界)」という未来をつくっていくための種まきに費やした1年だった。ひとつずつ振り返ってみる。

年明け、メールマガジンを始めた。これはずっと書いている「読書日記」とテキストラジオ「フヅクエラジオ」をお届けする有料メールマガジンで、「つくるに足る金額が集まったら次のフヅクエをつくっていきます」と謳っている。目安の人数としている1000人は、はるか彼方だ。遠い。まだまだ時間は掛かりそうだがいつか、ここで預かったお金で次なるフヅクエをつくるつもりだ。

1月末、「『本の読める店』のつくりかた」という連載を店のWeb上で始めた。フヅクエという場所のありようや思想をひと連なりの読み物として提示することで、理解者や味方やファンを増やすこと、それは今のフヅクエを利することにもつながるだろうし、それ以上に僕が欲望しているこれからのフヅクエの展開を後押しするなにかを生むのではないか、というのが目論見だった。飽きっぽいのですぐに疲れてやめてしまったが、出版社から声を掛けていただき、出版が決まった。夏からは店に立つ時間以外はひたすら原稿を書くことに費やされた。来春の発売を目指して今も取り組んでいる。

また、2018年6月に発売された『読書の日記』の続刊の制作も並行しておこなわれた。食べるように読む暮らし、つまりただ漫然と本を読んだり読み損ねたりし続ける暮らしが記され続けている『読書の日記』は、フヅクエとして謳っていきたい「気楽に楽しむものとしての読書」(対置されるのは「教養を身につけるものとしての/学び・気づきを得るものとしての/高尚な趣味としての読書」あたりだろうか)と同調するものであり、「なんだか本を読むのも楽しそうだな」と思う人を一人でも二人でも増やしていくことに寄与できたらいい。それはやはりフヅクエの未来にも、ひいては読書文化の未来にも関わることで(言い過ぎ)、この取り組みはライフワークとして続けていきたい。

4月、下北沢店の発表とともにスタッフの募集を始めた。2店舗を運営していくためには、当然2店舗を回していくに足る人員が必要で、これは大きなチャレンジだった。ありがたいことにたくさんの応募をいただいて、4人が新たな仲間として加わってくれた。スタッフはこれで5人になったから、6人のチームということだ。

9月頃から新スタッフが徐々に合流し始めて、秋はもっぱら育成だった。教える時間を長く過ごしていくに連れて、意識がずいぶん変わってきた。自覚していなかったが、これまでの僕の意識は「全部の時間を僕が立ち続けていたらとてもじゃないけれど体がもたないから、代わりに立ってくれる人が必要だ」という程度のものだった。先のインタビューでも僕はしゃあしゃあと「第二の阿久津隆を」などと言っているが、しかしそのときに、働く主体自身の喜びや成長への興味はどこまであっただろうか。真剣に考えていたとは到底言えない。
これが、複数人の育成をしているうちに、よりいい教え方、よりいい学び方について考えるようになっていった。レシピや使う食器ひとつを取ってみても、僕は自分で設定していったものだからすぐに覚えられるけれど、覚える側としてはこれってどうなんだろう、という意識が(驚くことに)初めて芽生え、迷いにくいように覚えやすいように調整していったり、また、これまでは一対一で口頭なりなんなりで伝えていけばよかったことが複数人に十全に均等に情報を提供していく必要がある、ということがわかり、そのための環境を構築していったり、スタッフ一人ひとりが抱える課題や不安が異なるということに直面し、個々の目標設定を可視化してクリアして「できるようになっていく喜び」を感じてもらうべく、そのための場所を用意したりしてきた。

ここにきて、「第二の阿久津隆を」という意識も薄くなった。阿久津隆のコピーをつくることなんかではなくて、働く場所としてのフヅクエのマインドセットを正確にインストールしてもらったうえで、それぞれが「固有の自分自身」として振る舞えること、のびのびとおおらかな気持ちで働けることのほうがよほど大切だと、やっとわかった。これからそのための環境をどこまで充実させていけるか、それこそが僕に課された宿題だし、みんなのフィードバックをもらいながらいいものにしていきたい。(と言いながら、「もうできるでしょ」みたいな調子ですぐに怠けて読書に走ろうとするから、ちゃんと気を引き締めないといけない。どうやらまだ自分の中で「教えるという労働」というものがきちんとは浸透されていないようだ)

環境をどこまで充実させていけるか、というのは働いている時間の充実だけではないというのも今年やっと気づいたことだ。これまでは人件費なんていうものは安ければ安いほど助かるというような考え方で、最低賃金がどうのみたいな話題も、「え〜、今ってこんなに高いの? 俺が大学生とかのときなんて800円とかそんなんじゃなかった? たっか〜!」みたいな態度で関わることだったが、これも変わってきた。

フヅクエで働くことを選択したことによって、その暮らしがまっとうに支えられ、そして暗くない未来を思い描けるように、なにができるか。どうしたら一人ひとりにより多くのお金を払うことができるか。考え始めたばかりで、今のところは最低賃金付近でよちよちうろうろしているが、少なくとも僕の意識の中に、フヅクエにおける僕自身の幸せを達成させる要件に、これまであった「お客さんの幸せ」に加えて「スタッフの幸せ」という項目が追加され、そのことを考える時間が多くなった。これは前進だろう。この一年、たくさんのことをしてきた気がするが、最大の取り組みであり最大の変化は「スタッフをちゃんと幸せにしたい」という気持ちが芽生えたことだと思う。

いつか、フヅクエで働くことが、金銭的な充実、未来の選択肢の充実、そういうこととイコールになれることを真剣に目指していきたい。書いたら叶うかもしれないので具体的な欲望も書き記しておこう。社員登用!

長くなりましたが、振り返りながら強く感じたのは、フヅクエという、元々は僕個人の商売でしかなかったはずのものが、もう少し大きく広いプロジェクトになりたがっている、ということだ。

これから先、撒いた種はどんな芽を出していくのだろう。さっぱり芽を出さないまま終わるかもしれないし、美しい花を咲かせ、見たことのない風景をつくりだすかもしれない。水をやりに来てください。

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