自転車のペダルが止まった。前カゴには、スーパーの袋がすでにいくつも。
「りんご?」
「青森の大鰐町から届いた、りんごです」
「りんご、皮むくのが面倒なんだけど」
「減農薬、ワックスなしだから、皮ごと食べられます。食べてみませんか」
最初はとまどっていた主婦との距離が少しずつ縮まっていく。行商の醍醐味だ。
真昼間の買い物客が行き交う商店街で、道行く人に呼びかける。「行商」という昔ながらの販売スタイルでりんごを売るのは、片山玲一郎さんだ。京都の山科に本店を置くムカイ林檎店の、東京三鷹店を切り盛りする。
「ムカイ林檎店はりんごじゃなくて、場面を売っている」
「りんご、いりませんか?」。たいていはおどおどさせてしまう。「うふぁ、ふぁ、ふぁ」と言葉にならない声で笑いながら去っていく、スーツ姿のサラリーマン。
なぜか、皆、笑う。
「私、りんご買うの?」。その気もなかったのに、スーツの女性がにこやかに買っていく。「何売ってるのかな、って思ってさ」。わざわざ店の奥から出てきて、お財布を取りに戻った商店街の店主もときにいる。
気がつくと、行商の車の周りには小さな輪ができている。いつも通る道。そこへりんご売りが現れると、急に、ふっと場面が変わる。行商にはそんな魔法がある。
りんごをきっかけに始まるお客さんとの会話。それがたまらなく面白いと片山さんは言う。便利になっていく世の中で、顔が見える手売りの良さを大事にしながらりんごを届ける。ムカイ林檎店が行商にこだわる理由だ。
売る人が「ちゃんと生きていないと」人は買わない
夜7時までに全部売るぞと思うと、きっかり7時、木箱の中の最後のりんごをすべて買ってくれるお客さんが現れる。 不思議なぐらいに。どこが自分の着地点か、自分で決める。するとちょうど1日の終わりに、その目標が達成される。
「何を求めているか、はっきりさせて、そこへ行く。自分の気持ちが、ちょっとでも本音からずれていたりすると、お客さんから優しさで嘘をつかれたりする」
だから片山さんは、まっすぐに、迷いなく、道行く人に問いかける。「りんご、いりませんか?」
「素の自分」で商売する面白さ
片山玲一郎さん自身は、ジャズピアニストだった。ある時、ジャズクラブのステージで弾いていたら、演奏の出来とは無関係に「ピアニストの演奏」というだけで拍手されることに、違和感を抱いた。翌日、たまたま「りんごの行商」のアルバイトを見つけた。以来、肩書きではなく「素の自分」が評価されるりんご売りの仕事の虜になっている。「普通は、名刺を交換して、何者かになってから始めますよね。でもりんご売りは違う」
「イライラしている時は、イライラしてる人と会う。今日はゆるいな、という日には、まるで見透かされたかのように、頑張ってね、と言われる。お客さんは、自分の映し鏡。そして本当に、人の心に響かないと、りんごは売れない」
桃でもバナナでもなく、りんご
行商の拠点となる三鷹店の日当たりのいい店の奥には、りんごが入った木箱が積み上げられている。スピーカーから流れているのは、フランスのラジオのジャズだ。
ルノーの車のイラストが描かれた木箱もある。描いたのは、車のデザインをしていたという、今は三鷹店で働く片山淳之介さん。玲一郎さんの兄である。工業デザイナーとして働いていた会社を辞めて、兄が来てくれた時は嬉しかった、と玲一郎さんは言う 。
三鷹店で働くのは20歳から56歳までと幅広い。アーティストやモデルなど、なぜかクリエイティブな仕事で一本立ちできる人が多く、全員がアルバイトだ。店の壁にそれぞれのアートを飾り、ライブを開くこともある。りんごの行商に魅かれるのは、お客さんとの触れ合いや奥深さにある。
玲一郎さんが行商をはじめて、もうすぐ15年。4人の子どもも、気がつくとりんご大好きに育った。「桃でも、バナナでもおもしろくないんです。りんごはモチーフとしても強い。アダムとイブ、ウィリアムテルし、そしてニュートン」。ハンドルを握る玲一郎さんは、今日これから起こるだろうドラマに胸が高鳴る。そこに、「りんごの引力」がある。
ムカイ林檎店 / 東京三鷹店
東京都三鷹市上連雀5-24-7 エヴァーグリーン103号
Tel: 0422-26-6471
Square編集部
文:野田香里
写真:Cedric Riveau
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