【商いのコト✕greenz】小売店は良質なメディアになる。自分が信じるつくり手やものの価値を届けたい、生活用品店「bollard」五十嵐勝成さんの物語

つなぐ加盟店 vol. 53 bollard五十嵐勝成さん

働き方や生活の場を考える上で、移住という選択肢が頭に浮かぶことがあります。

実際、拠点を移すには体力・気力ともに多大なエネルギーが必要。けれど、エネルギーをかける分、どれだけ楽しんでその旅に挑戦してみるかに人生の鍵はあるのではないでしょうか。

「いかしあうつながり」をテーマにしたウェブマガジンgreenz.jpとともに、職と住が一体となった暮らしを訪ねるシリーズの第3弾。今回は、移住先の岡山で、生活用品店とコーヒースタンドを営み、人生をさらに面白いものにしようと試みる、「bollard」の五十嵐勝成さんに焦点を当てます。

港町を拠点にした理由

岡山県玉野市。最寄り駅の宇野駅を降り立つと、目の前には漁港が広がり、磯の香りが微かに漂ってきます。瀬戸内海を臨む港町が、今回の主人公である五十嵐さんの生活の拠点。パートナーの麻美さんと二人で東京から岡山へ移住して7年。岡山市内に1年半ほど暮らした後、宇野港の近くに移り住んで5年半になります。

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駅から歩いて5分ほどの小さな商店街の中に、「bollard」はありました。開店して5年を迎えた店では、二人が使ってみて愛着の湧く生活用品を紹介。器、衣服、アクセサリー、バッグなど、さまざまです。

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▲生活用品店「bollard」の店内

さらに、そこから5分ほど港の方へ歩いていくと、宇野港に面した道沿いにコーヒースタンド「BOLLARD COFFEE」が見えてきます。こちらは、ゲストハウスなどが入った古いビルの一階にある小さなスペース。オープンした理由は、「僕自身が美味しいコーヒーを飲みたかったから」。

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▲目の前は瀬戸内海。すぐ近くに宇野港のフェリー乗り場がある。

高松行きのフェリー乗り場がある宇野港は、現代アートで知られる直島のすぐ目の前。世界中から旅行者が訪れる場所ですが、お店はあくまで地元の人に親しんでもらうためにつくったといいます。

「隣は魚市場なんですが、その魚市場の社長のおじいちゃんや買い物客のおばあちゃんも毎日のように立ち寄っては、おしゃべりしていってくれるんですよ」

お店に立ち寄るお客さんの層は、20代後半から60代と幅広く、市内や近郊の福山市から訪れる人も多いのだとか。

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「岡山で店を開くならどこがいいかなと考えた時、瀬戸内海の穏やかさが好きだったし、港があることでオープンな空気感があって、外の世界との距離感がいいなと感じたんです。

この港町だったら、ビジネスで行き来するのにアクセスも悪くないし、友だちも遊びに来てくれそうだなって。ある程度、自分のペースで暮らしが成り立ちそうだと思いました。

不思議なことに5年の間、土砂降りの日も台風の日もお客さんが来なかった日はないんですよ」

近隣に暮らすつくり手とのつながりも生まれました。

「こっちに来て知り合った人は、『石川硝子工藝舎』の石川昌浩さんや木の器をつくる仁城逸景さん。岡山に越してきた仲間では、帆布製バケツバッグをつくる『3sun』の岩尾ファミリー、金工アクセサリー作家『muimaur』の吉沢小枝さん、牛革の財布や小物をつくる『ANDADURA』の山本祐介くん。みんな馬が合って、うちで商品を扱うようになりました」

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「岡山は人の巡り合わせがよくて、移住してすぐ、友だちがたくさんできたんです。岡山市で飲食店を経営してる方が僕のことを面白がって、次々と合いそうな人を紹介してくれて。そうしてキーマンとつながっていったという具合です」

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▲同じビルでゲストハウスHYMを営むオーナーとばったり。しばし話が弾むふたり。

そんな五十嵐さんが、普段の暮らしではどんなふうに過ごしているのか、興味が湧いてきます。

「店からそう遠くない山の方に一軒家を買って、暮らしています。

子どもは今3歳で、月曜日は娘と過ごすために保育園には預けず、僕も休みをとって、水族館や公園、行きたい場所へ連れていって。毎日の夕飯は家族で食べるように決めています、完璧にはできませんが(笑) リフレッシュしたくなったら、近所の旨い焼き鳥屋で決まったメニューを食べて過ごします。修行のようでもあり、瞑想のようでもあり。

あと、カーレースのシミュレーターをしている時も僕にとって瞑想に似た時間ですね。仕事に集中すると食べずに没頭してしまうので、休まないとまずいなって時には、睡眠をとるかそのシミュレーターをして頭を休ませています」

順調に縁を育み、豊かに暮らしている様子が窺えますが、そもそもなぜ移住を決心したのでしょう。

デザインの世界へ

移住する前は、東京に暮らし、ご夫婦でデザインスタジオを営んでいた五十嵐さん。ものづくりの世界に目覚めるまでの道のりは、紆余曲折。率直に語ってくれました。

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「新潟に生まれ育って、大学まで新潟にいたんですけど、夢や将来のことなんて何も考えていなかったんです。

高校の時の彼女が小学校の先生になりたいっていってたから、じゃあ僕は理科の先生に…という感じで進学したんですけど、大学3年になって別れちゃったんですね。

大学もどうしようかな、辞めようかなと思っていた時、建築を学んでいた友人から、デザインやサブカルチャー、アートというものが世の中に存在するっていうことを教わって、この道に進めば単純にモテそうだなって(笑)

後々、地味な仕事だなって気づくわけですけど」

そこからクリエイティブなことやデザインの世界にはまっていったといいます。

「上京して通い始めた学校に一人面白い先生がいて、建築家なんですけど、生活というリアリティをベースにして、自分の気持ちから考えを組み立てていくやり方を教えてくれたんですね。

今考えると、当たり前のことなんですけど。世の中、デザイン、建築、ビジネスにしても表層だけかじる人たちがいっぱいいるじゃないですか。でも、その先生にはクリエイティブなことに限らず、ベースづくりの大切さを教えてもらいました」

その先生の母校でもあるイギリスの建築学校への留学準備を始め、本格的に建築の道を進む方へ向かっていた五十嵐さんでしたが、ここでふたたび失恋を経験し一時的にうつ状態に。留学は頓挫したそう。

「1年近くぶらぶらして、でも、同世代の友だちに追いつかなきゃなって思い立ってから、大学の時にかじってたITの業界に入ったんですね。その後、広告代理店に転職して5、6年仕事をしました。

そんな時、プライベートで飲み仲間だったデザイナーの友人がいたんですけど、そいつがどんどん活躍していく姿を見て、羨ましくなって。自分でも何かつくりたくなったんです」

『だったら、つくらなきゃ意味ないよ』

友人のそのひと言にガツンときたという五十嵐さん。その頃、結婚した麻美さんと一緒に、週末起業的にデザインスタジオを始めることに。2008年、29歳の時でした。

自分でものの価値を決めること

当時はネットショッピングが普及し始めの頃。五十嵐さん夫妻が始めたのは、セルフプロダクションの小さなメーカーのようなスタジオ。半年後の2009年春から、仲間とともにECサイトを始めます。

「最初に手がけたのは、ティッシュケース。ある時、ティッシュがきれいに見えたことがあったんです。使わない時にきれいな状態で飾れれば、ティッシュに見えない。ものって椅子でも床に座って使えば机になるわけでしょう。自分でものの価値を決めてるんですよね」

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▲デザインスタジオ時代につくったアイテム、eninal “Tissue Case”。写真提供:五十嵐勝成さん

「あとは、クリップのアクセサリー。クリップまでがプロダクトで、そこに挟むものは日常の中から見つけてくるという発想です。つくらないことに興味があったので、すでにあるものに焦点を当てました」

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▲写真提供:五十嵐勝成さん

2010年の夏から秋にかけて、独立。軌道に乗ってきた頃、東日本大震災を経験します。

「原発については、新潟にも柏崎刈羽原発があって、出掛ければ遠くに見えていた記憶がありますが、事故が起こって初めて意識して。ツイッターや外国の友人から情報を集めるようになって知識がついていった感じです。

もともと、暮らしがベースにあって、ものをつくるというのが前提でしたから、いずれはどこかへ移り住みたいとも考えていたんです。それで、場所選びを始めて、東京に行きやすい、地震が少ない、原発から離れているといった条件で探してみると、岡山しか出てこなかった。その年の5月には物件を決めて、7月には暮らし始めていました」

初めは市街地に住んでいたという五十嵐さん。暮らしながら、ものを伝える仕事がしたいと思うようになっていたといいます。

「震災は自分がどの情報を信じてどう行動するのか、突き詰められる初めての体験でした。同時に、マスメディアから流される情報で世の中はかたちづくられていると痛感したんですね。

ものも一緒で、3次元目をもったインフォメーションなんです。このインフォメーションもメディアを通して動くわけだから、メディアが物を言う。僕の定義では、店もメディアです。情報もものも過多になってくる時代、僕らが考える良質なメディアはまだ少ないし、これから重要になってくるなと思ったんです」

良質なメディアとしての役割。それを求めていったら、気づいた時には「bollard」ができていたといいます。

「店の商品はもちろん長く使いたい、価値があると感じて選んだもの。でも、『僕たちが選んだから』じゃなく、自分の中に物差しを持ってる人が増えたらいいし、世の中の消費の仕方が変わるといいなと思って始めたんです」

つくり手と共に価値を届ける

「実は来年あたり、また仕事のかたちが大きく変わるような気がしてるんです。早ければ今年中に、メインの事業を今とは全然違うものに変えちゃうかもしれないし、来年には今のbollardとはまったく違うかたちの店として営業しているかもしれません」

予想外の言葉に軽く衝撃を受けながらも、五十嵐さんの話は魅力的で、どんどん惹き込まれていきます。

「要は僕が信じるつくり手やものを、現状よりもっと適切なかたちでより多くの人に伝えていこうということなんです。

応援したいつくり手って本当に伝えたい部分が伝わらないというか、大きなメディアに負けてしまうところがある。じゃあ、つくり手と一緒にそれを届ける仕組みをつくっちゃおう、と。マネージメントとか委託販売のイメージより、もう少し近いもの。『一緒に』という感覚なんです。

たとえば、それが服であれば僕らは服屋さんになりますし、それがお菓子なのであれば僕らはお菓子屋さんにもなります」

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そう考えていくと、今ある事業の枠組みは違うものへと変化していきそうだといいます。

「順調に売上は上がってきているけれど、春くらいからなにか違うなと思ってずっと考えていたんですね。その時、悩んでるフィールドが間違っていたことに気づいたんです。今あるお店の中で何ができるか、というよりももっとバカっぽいこと、圧倒的に自分に無理なこと考えようって。

すでにアクセサリーのつくり手と進めていることがあったり、ほかにも少しずつ話をしていこうと考えていたりするんですけど、そのつくり手やブランドごとに合った適切な方法で、抱えているマイナス面を解決できたらいいなと思うんです」

夢をかたちにする前のトレーニング期間

実は、ここまで伺った夢の話は前哨戦。五十嵐さんには最終的に描いている大きな夢があるといいます。

「大学時代に教育に関わりたいという思いを残しつつやってきたので、教育の分野で次の世代につないでいくことができたらと思ってるんですね。

今39歳なんですけど、42歳からちっちゃな事業に特化したインキュベーターになりたいんです。そのためにも、小商いよりもう少し大きなレベルで事業を展開したという経験がほしいなって。それがこれからなんです」

インキュベーションと教育。具体的にはどんなことを思い描いているのでしょう。

「たとえば、この町でラーメン屋になりたい高校生がいて、本気だったら、いいラーメン屋になるのをすぐそばで手助けする。いわゆる投資業と似てるけれど、イグジットすることは必ずしも求めないというか。

興味があるのは、もっと小さな商売をする人が増えて、自由に挑戦できるんだっていうことを、若い世代に知ってほしいということなんです。失敗するかもしれないけど、背中を押したいなって」

そんなサポートをしながら、「45歳で寿司屋をやって、自分で寿司を握ってる気がしてるんですよ。投資と旨い寿司屋って親和性が高いと思うんです」と笑う五十嵐さん。

でも、聞いていると、その痛快なストーリーが絵になって思い浮かんでくるから不思議です。逆風に乗ってしまったら、方向転換して順風に変えればいい。そう思いきれる自由で、宇宙のように果てのない思考が、五十嵐さんの頭の中には巡っているようにも思えます。

「でも、まだまだ自分の中のスピードが遅いと感じているんですよ。いのちは何ものにも代えられないじゃないですか。裏を返せば、時間はすごく大事だということ。その代わり、合間でゆっくりすることも不可欠だけどね」

ハッとさせられる言葉が耳に残りました。

自分でものの価値を判断し、つくり手といい関係性を築きながら、買い手の間をつなぐ良質なメディアになりたい。ものづくりの立場もものを伝える立場も両方を経験した五十嵐さんだから、自分にできること、やりたいことがあると明確に、誠実に、語ることができるのではないでしょうか。

今後のライフワークの展開がどうなるか目が離せません。

もし、今あなたが何かしらのもやもやを抱えているとしたら、五十嵐さんが夢を描き、語ってくれた“マイストーリー”は、本質的な部分の問いを自分に当てはめて考えてみる機会になるかもしれません。そして、夢は誰もがいつでも描けるんだと、背中を押してくれるかもしれません。

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▲取材中、夢の実現を予感させるような力強い虹が海に架かりました。

文:前田 亜礼
写真:重松美佐

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