つなぐ加盟店 vol. 48 大谷製陶所大谷哲也さん、桃子さん
自分の思い描いた通りの人生を実現できる人って、一体どのくらいいるのでしょう?
私はたまに思うのです。設計通りに進む人生と、予想せぬ出来事を波乗りするように越えていく人生、果たしてどちらが味わい深いのだろうと。そして人生の本質は、もしかすると予期せぬ出来事の重なりの中に、自分なりの良い塩梅を見つけることなのかもしれない、と。
今日みなさんにお届けするのは、ご夫妻で陶芸を生業とする「大谷製陶所」の大谷哲也さんと桃子さんの暮らし。今や国内外で活躍するお二人ですが、実は当初は陶芸家になろうとは思っていなかったのだとか。“今”の生活は、最初に描いていたものとは違うかもしれない。でもお二人の暮らし方はさりげなくて、とても心地よいもの。
「いかしあうつながり」をテーマにしたウェブマガジンgreenz.jpとともに、職と住が一体となった暮らしを訪ねる3本のシリーズ。今日は1本目として、みなさんと自分の心にちょうどいい暮らし方のヒントを探ってみたいと思います。
陶芸のまちで暮らす良さ
滋賀県甲賀市信楽町といえば日本を代表する陶器の産地のひとつ。その歴史のはじまりは、平安時代後期にまでさかのぼります。茶道の大成者、千利休が信楽焼をはじめとする “和物”の陶器を使いはじめて以来、信楽焼は今なお多くの茶人から愛されています。
この地で陶芸が発達したのには、土地の特性がありました。日本一大きな湖、琵琶湖を中心に抱く滋賀県で、信楽はめずらしく琵琶湖に接していない山間の土地。しかし実は400万年前に堆積した古琵琶湖層の良質の粘土層の土が陶芸にとても適していたのです。
大谷さんご夫妻は、陶芸の長い歴史を持つこの信楽にご自宅と工房を構え、ご家族5人で暮らしています。
▲右手の建物が自宅、左手の建物が工房です。
▲大谷家のリビング。クーラーはなく、大きな窓を開けっ放しにすれば夏のそよ風が部屋を渡っていきます。
▲白い磁器焼き物が哲也さんの作品。キッチンやリビングのあちこちにたくさん置かれています。
▲手前の白い磁器は哲也さんの作品。自らつくった器が暮らしの中で自然に使われています。
大谷さん夫妻がこの地に家と工房を建てて10年。今や国内はもとより、海外でも年に数回は展覧会を行っています。これまでに台湾、中国、アメリカ、オーストラリアなどで展覧会を開催してきました。国内外を問わず活躍する超人気作家です。
陶芸の作家が作陶して生計をたてていく場合、国内のギャラリーやデパートで展覧会を開いたり、クラフト市などに出展してお客さんと出会ったり、というのが一般的な道筋。大谷さんたちも国内外で作品を発表していますが、2014年から住まいのすぐ隣に展示室をつくり、訪れたお客さんに直接作品を販売することもはじめました。
哲也さん「いま展示室にしているところは、もともとは工房だったんです。でもだんだん手狭になったので新たに工房をつくることにしました。家から仕事場に行く時は必ずこの展示室を通ります。展示室がなかった時は在庫を箱に入れてしまったままにしていたんですが、ちゃんとした形で展示すると、姿見のように改良点もいい点もチェックできるんですね。ぼんやりしていたところの輪郭がはっきりしてくるんです」
▲自宅と工房の間にある展示室「KNOT」。哲也さんと桃子さんが自分たちの作品をチェックする姿見のような場。ホームページから予約して、予定があえば見学と購入が可能。
展示室は大谷さん夫妻の仕事と家をつなぐ場所、そして訪ねてきたお客さんと自分たちをつなぐ場所という意味で「KNOT(結目)」という名前をつけました。この展示室は予約制にしているものの、国内外から問い合わせが頻繁にやってきます。
はじめから陶芸家を志してはいなかった二人
桃子さんは、ご両親も陶芸家。お隣の京都で生まれ、3歳の頃に家族で信楽に移住して以来、このまちで育ちます。その後アメリカの大学やインドネシアに留学し美術史などを学びました。しかし、留学後はご両親と同じ陶芸を志すようになり、信楽にある窯業試験場に通い始めました。
桃子さん「陶芸家である両親と違うことを学びたいと思って、留学時代は全く違うことばかり学んでいたのですが、いざ離れてみるとこうした静かな場所で自分の好きなことを仕事にするのはいい生活やな、って思ったんですよね。それで知人が窯業技術試験場で学ぶことを勧めてくれたんです」
一方哲也さんは、兵庫県神戸市出身。もともとは、車のデザイナーになりたくて、京都の大学でプロダクトデザインを学んでいました。
哲也さんが陶芸に出会ったのは、そんな大学生の頃。授業で陶芸の時間があり、担当の先生の「好きに窯を使っていいよ」という声に従って、陶芸をはじめました。こうしてできた作品を学祭で売るなどし、学生にして仲間らと出店したテント全体で数十万円相当の売り上げがあったそう。
その後バブル崩壊後の不景気が社会を覆うなか、就職活動で車のデザイナーになる夢は叶わず。哲也さんは1年ほど旅に出たり、作陶以外にも手がけていた彫金の作品をギャラリーで委託販売したりするなどして暮らしていました。
哲也さん「僕があまりにぶらぶらしていたので、大学の先生が「『滋賀県信楽窯業技術試験場』での講師の仕事があるよ」と声をかけてくれて、公務員試験を受けて、そこに務めることになりました」
「滋賀県信楽窯業技術試験場」ではデザイン科で教えていた哲也さん。勤めて2年目に、桃子さんが陶芸を学ぶために研修生として入学してきました。
桃子さんは窯業技術試験場を出てからそのまま作品をつくり・売るという作家の道を進みます。ほどなくして二人は結婚。哲也さんは家庭を支えるべく、試験場での仕事を続けました。
しかし、桃子さんのご両親やその周辺に集う作家たちが自分たちの好きな作品をつくって売り、畑などをやりながら自作の器に料理をのせて人に振る舞う暮らしぶりを見ているうちに、哲也さんも作家としての生活に憧れるように。
こうして自宅の一角にろくろを置き、仕事の後にろくろをひくという“二足のわらじ生活”がはじまりました。試験場ではろくろを教えていたわけでもないため、見よう見真似。しかし、わからないところがあれば、試験場にいる専門家に聞くことができるという環境にあったことは哲也さんの作陶にプラスでした。
何気なく出展したクラフト市が転機に
転機が訪れたのは、2003年。桃子さんが参加する「工房からの風」というクラフト市に哲也さんも参加することになったのです。
哲也さん「当時は『桃子さんの旦那さん』というスタンス。『旦那さんも何かつくてはるなら、一緒に出されますか?』と言われて、出品したんです」
このクラフト市に出展したことがきっかけで、ギャラリストから「展示をしませんか?」と、作家としての仕事が次々と舞い込んでくるようになりました。
しかし当時すでにお子さんがいたために、それから5年は試験場に勤めながら作家活動を続けてきた哲也さん。2008年に試験場を辞めて、独立することになった当時を振り返ってこう話します。
哲也さん「桃の両親を見て『こんな生活いいな』と思って独立した時は、『半農半陶』ぐらいのつもりだったんですよ。自分の好きなものをつくってお金をいただけるのだから、こんないい生活はないって。二人で今まで勤めてた分ぐらいが稼げたら、何とかやっていけるだろうと思って独立したんですけど…」
桃子さん「まさかこんなことになるとは(笑)」
失敗は、可能性の芽
「好きなものをつくって暮らす」。楽しそうに聞こえるけど実際は黙々とつくることに打ち込む毎日。朝は8時から夜9時まで、間にお昼や休憩をはさんだとしても、作業時間は長い。しかも夫婦で仕事場も暮らす場も同じ。
桃子さん「私は朝から3人の娘を送り出して、少しお掃除などしてから仕事にかかります。朝は哲っちゃんがパンを焼いてくれて、コーヒーを入れてくれます。お昼も哲っちゃんがつくってくれるんです。以前、私がお昼をつくることもあったんですが、仕事のキリがいいところまでいってからつくっていたんです。でも多分哲っちゃんは12時なら12時に食べたい人。だからある時から『お昼つくるわ』と言って、それから哲っちゃんがつくってくれるようになりました」
職場も生活スペースも一体となっているだけに、どうやら大谷さんたちはストレスのないように自ら気をつけている様子。ケンカもたまにはするけれど、黙って作業をしていたら自然とまた仲直りするのだそう。
▲5人家族の大谷家。猫が2匹と、大きな犬も1匹います。
哲也さんと桃子さんの作品は、こうした静かで穏やかな暮らしがあるからこそ生まれるものばかり。たとえばコーヒーが好きな哲也さんは、あるときからコーヒードリッパーも自らの手でつくりだしてしまうようになりました。
しかし、つくったことがないものを、誰からも教わることなく開いていく工程は、まさにトライ&エラーのくりかえし。時には失敗の中から生まれた名品もあるのだとか。
哲也さん「僕は人に聞くっていうのが好きじゃなくて。自分は『何がわからないのか』をわかることとか、あらゆる失敗をしてみることが一番重要なんですよ。教えてもらうと、正解をくれるじゃないですか」
コーヒードリッパーも失敗しましたよ。ドリッパーって壁面に溝がついていて、フィルターとの間に隙間があることで空気が入ってコーヒーが落ちるんですが、その溝がないものをつくったし。今度は横に穴を開けてみたら…。
桃子さん「コーヒーがじゃーっと横から漏れたり…(笑)」
哲也さん「ある日、縁が割れてしまって『じゃあ平らにしたら?』と桃に言われて」
桃子さん「タルトやキッシュを乗せて切るなら、縁がないほうが便利だからそのまま使っていたらある日、パリで活躍する日本人シェフが来てくれて『これがいい』と注文してくれたんです」
そしてこの失敗から生まれたお皿が、さらなる転機となりました。
通常陶芸の作家となると、ギャラリーや展覧会で個人を相手に仕事をすることが多いものですが、横のつながりが強いシェフたちの間で注目を集め、国内外から注文が多く入るようになったと言います。
桃子さん「和食って器はすごく凝りますけど、以前は洋食器ってだいたいどのレストランも似ていると思うことが多かった。それを見て、哲っちゃんはずっと洋食器を手がけたいと言ってて。『その夢が叶ったね』って話をするんです」
哲也さん「主婦とプロでは器に求めてるものが少し違うんですよね。違うんだけど、一緒にすることもできるはず。僕は何でもプロ用と家庭用と分かれてること自体がいやなんです。いいものはいいはずというか、“モノ”に対する本質があるはずで。何でもオーバースペックである必要はないですし、プロや家庭用とわけることなく、一緒でいい。器でいうと、和食器と洋食器の垣根すらなくなるものがデザインのコンセプトです」
シンプルが好き。だからこそ続く
本来暮らしを取り囲むモノは、気分で“消費”するのではなく、暮らしに長く寄り添ってくれる道具のはず。いつの頃からか、モデルチェンジが当たり前、デザインを変えることで消費意欲を刺激するような買い物に、私たちは慣れてしまいました。哲也さんが目指すのは、モノがそのかたちを持つ必然性や機能美を追求していった先にたどり着く器。
哲也さん「車のデザイナーにはなれなかったけど、もしなっていても自動車メーカーのコンセプトに合っていなかったかもしれませんね。車は現行のモデルを陳腐化することで消費者に新しい車を買ってもらうという戦略になってきています。日本やアメリカは大体4年でモデルチェンジします。でも僕はずっと同じ車に乗り続けたいタイプですから」
新しいモデルが出ると、どうしてもそちらがほしくなってしまうというのが消費者の心理。車に限らず洋服でもバッグでも、毎年新たなトレンドが打ち出され、店頭に並んでいるのを頻繁に目にしていれば、ついほしくなってしまいますよね。
しかし、哲也さんのつくる器は10年経っても変わらずに、また買いたくなる器。お皿、カップ、鍋、ライスクッカーなど形はいろいろあれど、装飾や絵付けは施さずいたってシンプル。
▲工房で作業する二人。背景の蓮の絵は桃子さんが描いたもの。
聞けば二人の作風は最初に「工房からの風」に出展したときからほとんど変わらないのだとか。桃子さんも作家として独立した頃から粉引きの器に花やグリーンのモチーフを描き続けています。ブレない作風は、まさにお二人の生き方の表れでもありました。
桃子さん「料理にしても作品にしても、複雑にすると続けるのが困難ですよね。たとえば、釉薬のレシピもすごく複雑で焼くのも難しいとなると、毎日続けられない。料理にしても、スペシャルな日に難しい手のこんだものをつくるのはいいけど毎日はできない。簡単にできておいしいとか、簡単なのにいいというものが単純に好きなんです。シンプルであるから、負担が少なくて長続きするのかなと思います」
料理も作陶も、毎日続けることだからシンプルがいい。働く場と住まう場が重なる生活は、仕事も家事も子育ても、すべてが地続きでつながっていて、互いに影響し合う暮らしです。
大谷さんたちのように、誰もが職と住をひとつに重ねることは難しいかもしれません。しかし失敗の中に可能性を見つけること。シンプルなことを淡々と続けること。物事の本質を見極めていくこと。自分にとって良い塩梅の暮らし方のヒントはこのあたりに潜んでいるような気がします。
文:ヘメンディンガー綾
写真:衣笠名津美