インターネットを通じて世界中にファンを持つ伝統木版画彫師・摺師が選んだのは、浅草だった。
僕、版画をやりたくなったよ、と兄は言った
「そうっとね、そうっと」
麦わら帽子の兄妹が、大切そうなものを扱うようにして木版画をめくっていく。
「かわいい!これ見て」
6歳の妹が兄の袖を引いた。ネズミ、カメ、カエル、トカゲ・・・色彩あざやかな動物たちが、細部までデフォルメして描かれている。
「マンガみたい! 腕が鉄砲になってる」
中学1年の兄は、戦闘服を着た戦士に大興奮だ。
ピンポーン♪ 店のドアが開いた。
「Can you ship this to the US?(これ、アメリカに郵送できますか)」
そういって買ったばかりの木版画を手に戻ってきたのは、世界一周旅行の最中だというアメリカ人のカップルだ。店のオーナーであり、伝統木版画の職人であるデイビット・ブルさんが「No problem」と答える。ブルさんは「彼らは今日、来店するのは3回目なんです」と笑った。2人は泊まっている近くのゲストハウスで、この店のことを教えてもらって来たという。いったん店を出た後、わざわざ戻ってきて、さきほどアニメ風の1枚を購入したばかりだった。
店をオープンしてまだ8ヶ月。 あちこちに英語の表示が貼られている。老舗の和食店が閉店して以来、15年間使われずに打ち捨てられていたスペースだった。床や壁、白木のカウンターは「カナダ人なら誰でもできますよ」という、ブルさんの手によるDIYだ。
あえて店を持つ、という選択をしたからこそ、人生が変わった
「60歳の還暦を前に、再起動しようと思って店を始めたんです」
浮世絵師になりたくて来日した28年前、真っ先にアパートを探した憧れの場所が浅草だった。今では14人のスタッフを抱えるようになり、これまで活動していた青梅市のアトリエはそのまま残して、ブルさん自身は週のほとんどの時間を浅草の店で過ごしている。通りを人力車が往来し、昼間からお酒を飲む人で賑わう浅草寺近くの一角。
「百年、二百年の歴史を持つお店が、いくつもあります。私は新参者ですね」
ブルさんは流暢な日本語で言う。
「生活も、考え方も、まったく変わりました。木版画だけに打ち込む、青梅の自然の中の静かな暮らしと違って、ここには世界中から人が来ます。楽しいです。それに自分が若くなったと感じています」
インターネットを通じて売る通販とは違って、ここでは買う人の顔が見える。
「よかったら刷りの実演、見ますか?」
ブルさんに促され、子どもたちは靴を脱いで畳の部屋に上がった。赤、青、黄、黒、4つの絵の具を溶いたお皿と刷毛が、カウンターの上に並ぶ。
和紙を扱うブルさんの手つきは、さながらマジシャンだ。絵の具を塗り、バレンを円く動かし、さっと剥がしていく。
「和紙だから、すぐに絵の具が染み込みます。ほら、手で触っても乾いているでしょう?」
得意げに、ブルさんは笑顔を見せる。
「クイズです。次は何色になるでしょう?」
「赤と青だから・・・紫色?」
「当たりです。じゃあ、次は黄色です。さて、次は何色が出てくるでしょう?」
「ええと、緑色?」
使うのはたった4つの色。なのに、色あざやかな桃太郎ができあがった。
「わあっ、すげえ」
「感動」
「きれい!」
オーケストラのフルート奏者として働きたかった28歳の青年が、地元のトロントで、ふと入ったギャラリーで初めて浮世絵を見た。柔らかな光で浮き上がる和紙の躍動感と「光で美しさが際立つ」さまに心奪われた。あの時は、浮世絵のことは何も知らなかった。その同じ感動を、今、ブルさんは自らの手で伝えている。
浅草/木版館
東京都 台東区 浅草 1−41−8 2F
Tel: 070-5011-1418
Square編集部
文:野田香里
写真:Cedric Riveau
Square編集部はお店の知らせざる想いを応援します。