【商いのコト✕greenz】人の幸せとともにあるものづくり。廃棄される剪定枝や鉄粉を地域の宝ものに変えた「立花テキスタイル研究所」新里カオリさんが尾道に導かれた理由

つなぐ加盟店 vol. 51

立花テキスタイル研究所新里カオリさん

世界規模で問題になっているゴミ問題。プラスチックや廃油といった産業廃棄物、地域や家庭から出る生活ゴミ。ゴミにかかわらず、人間が不用と判断しているものも、それを生かせる誰かの目に留まれば、姿を変え、光を放つ可能性を秘めているかもしれません。

「いかしあうつながり」をテーマにしたウェブマガジンgreenz.jpとともに、職と住が一体となった暮らしを訪ねるシリーズ第2弾。今日は尾道の植物・廃材を使った染め織りの商品開発、販売を行う「立花テキスタイル研究所」の新里(にいさと)カオリさんを紹介します。

新里さんの暮らしと仕事の拠点は、広島県尾道市にある向島(むかいしま)。尾道駅近くのフェリー乗り場から船に乗って5分ほど、柑橘類栽培や農業、漁業の盛んな瀬戸内海に浮かぶ島です。

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▲尾道のフェリー乗り場から目と鼻の先にある対岸の島が向島。

新里さんは染織研究家として、向島で和綿や藍といった素材を地元の農家さんと一緒に栽培しながら帆布製品をつくっています。耐光や耐久性、色ぶれといった項目をクリアし、厳しい基準に合格した生地のみでつくられたアイテムは、確かな目を持つ染め織りファンからの人気と信頼を得ています。

染色素材の中でも異色なのは「鉄粉プリント」の存在。鉄鋼所で鉄板をカットする際に出る、目の細かい鉄粉。産業廃棄物となってしまう鉄粉を帆布のプリントに使ったオリジナルバッグが、商品の中でも一番人気なのだそう。

鉄粉をはじめ、藍、和綿、柿渋。比較的地味な色合いの素材ばかり。なぜこれらの素材にこだわるのか。そこには新里さんの確固たるポリシーがありました。

尾道帆布との出合い

尾道はかつて寄港地だったことから、船の帆やテント、作業服などをつくる帆布工場が市内に10社ほどあったといいます。化学繊維の普及とともに需要が減り、その中で現存するのは最小だった家族経営の1社だけに。現在、「立花テキスタイル研究所」は、その残った1社である「尾道帆布株式会社」の工場の一角にあります。

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▲民家の中に佇む尾道帆布の工場。

新里さんと尾道との出会いは、1999年の大学院生だった頃。埼玉県で育ち、東京の武蔵野美術大学に通い、テキスタイルの勉強をしていた新里さん。広島の美術館でどうしても観たい展示会があり、出かけたところ、せっかく広島まで来たなら会ってほしい人がいると、知人から紹介があったそう。そうして知り合ったのが、木織雅子さん(現「NPO法人 工房尾道帆布」会長)でした。

「木織さんは当時、喫茶店のママさんだったんですけど、テキスタイルを勉強している話をしたら、案内してくれたのが尾道帆布の工場でした。

伝統産業である尾道帆布を地域の特産にしたいという思いを持たれていて、尾道って形になるお土産がないから何かつくれないかと相談を受けて…。木織さんは根っこが活動家だから、何かしなくちゃって血が騒いだんだと思います」

軸にあったのはイタリアの精神

実は尾道で活動を始めることになる前まで、新里さんはイタリアへの留学を考えていました。

「大学時代、イタリアが好きで行ったり来たりしていたんですね。大学院まで行ったのは、社会に出たくなくて時間稼ぎをしたかったからなんです。その後は、どうしようかな、留学でもしようかなって。

いろんな国を旅した中でも特にイタリアが好きだったのは、まず、ものが洗練されていること。それはデザインの良し悪しじゃなく、1つのものを見た時に、ムダなものを使ってないんですよ。例えば、革だったら徹底的に革しか使わず、使っても少し金属をあしらう程度。日本のようにプラスチックやナイロン、綿など雑多に組み合わせないんですね。素材としてのシンプルさが徹底されている潔さに惹かれました」

「自然物を大事にするから、暮らしていて安心感があった」と話す新里さん。イタリアと日本をどうしても比べてしまって、と話を続けます。

「日本でスーパーに行ったら、レモン1つにしてもトレーが付いていて、これ要る? って。そのうち自分がつくっているものも、ものを生み出していく以上、ゴミを増やしているんじゃないかって気になってきて…。ものづくりをぴたっと止めちゃった時期でもあったんです」

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当時はインターネットで産地も知らない素材を買って、つくって、展示会を開いて、売れたり売れなかったり。美大生としてのそうした活動にアートの存在意義があるのか、疑問を抱きながら過ごしていました。

「ものが生まれてから死ぬまでの、ほんの一部しか携わってないのに、ものづくりっていっていいのかなという気持ちにだんだんとなっていったんですね。父方の故郷が岩手で、子どもの頃、夏休みには自然に囲まれてやんちゃに過ごしました。一方で東京にいると順応していくというか、何も感じられなくなっていたんだと思います」

そんな時、尾道でたった一軒だけになってしまった帆布工場と出合い、染色されていない、生成りの平織り糸が新里さんの心を震わせたのです。

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▲尾道帆布の工場で帆布の材料として使われている木綿の糸。

「創業から80年近く続いてきた尾道帆布は、シンプルに1つのことだけを続けてきたから生き残った。糸がその姿かたちを変えていく作業というのは面白いかもしれないと感じて、協力したいと思いました」

この出会いを原点に、新里さんのライフワークは始まります。

フィールドワークを経て向島へ

帆布でものづくりをすることの可能性を開くために全国から美大生を誘致し、「尾道帆布展」というレジデンス方式のアートイベントを企画した新里さん。廃校になった小学校や商店街などをアトリエにして1カ月間創作活動を行い、一般公開するという内容でした。

「1週間で何十万もする銀座のギャラリーを借りるより、地域の中で暮らしながらアートを考える機会になったし、みんなで刺激を受けて、すごく勉強になりました」

2000年から10年間開催された尾道帆布展と平行して、木織さんや地元の人と一緒に、土産となるバッグなどの商品も開発していきました。2003年には、木織さんを代表に「NPO法人 工房尾道帆布」が立ち上がり、新里さんは理事に就任します。

東京で学業と予備校の美術講師の仕事があったために、9年ほど尾道と行ったり来たりしていましたが、運営も軌道に乗ってきた2008年、木織さんから尾道へ引っ越してこないか、と声がかかります。

「最初は住むところも用意していただいて、仕事に自分がついていったので、移住という実感が湧きませんでした。尾道を訪れて以来、地域に生息する植物で染色してみたいという思いがあったんですね。それで最初の1年は国の助成金を使って、染色材料の開発から始めました」

向島を中心とした尾道エリアでの材料集め。根気のいる作業ですが、移住したばかりの新里さんは、どうやって地域の人と打ち解け、素材を手に入れていったのでしょうか。

「島の特産は何か、どの土地を誰が所有しているのかを10カ月くらいかけて調査していったんですね。材料については、コンスタントに供給できないと産業として続けられませんから、車で搬出しやすい場所で、十分に収穫できる畑の広さがあって、栽培農家さんにどれだけ続ける意思があるか、というところまで調べたかったんです。

それで、『この農家さんと一緒に仕事がしていきたいな』って思った方には、作業している合間に声をかけたりして、地道にやっていきました。

そうこうしているうちに、新聞の取材を受けたんです。その紙面を見た農家さんが剪定して要らなくなった枝で染色したいという思いを知って、快く協力してくださって。同じ農家さんである地元の方の紹介だから、他の農家さんも安心ですよね。そうやって信頼関係を築いていったという感じです」

ゴールをどこに置くか

染色の世界はつくり手がどこをゴールとするかが重要だと、新里さんはいいます。収益が出て、雇用も生み出せるようにという思いが、尾道と関わって以来、新里さんの構想にはありました。

「染めに使える植物というのはたくさんあるんですよ。でも、私はやっぱり次の世代にパスしたいので、仕事としてスムーズにやっていける持続可能なものづくりを確立したかったんです。

美大時代から自己表現といったものや崇高なものづくりよりも、どうやったら人が幸せになれるかといった仕組みづくりに興味があって、考えるほうが面白かったんですね。

ですから、染色材料の開発を通じて、農家さんの収入につながることや、産業廃棄物やゴミを少しでも減らすことができるかもしれないとか、存在することで意味があるものを残せたらいいなって。『つくりだす意味』というところを大事にしたかったんです」

その思いとともに、染色材料の調査が終わった後は、商品として胸を張れる品質にしようと、製品化に適した素材を見極めるステップへ。フィールドワークで調査した何百という材料で染めた繊維の中から、有力候補を検査機関に出して絞っていったそう。

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▲品質検査で一番厳しいといわれる老舗デパートの基準で評価を受けたサンプル表。

例えば、枇杷は素敵な色だけど、耐光と洗濯の項目で点数が足りないんです。ほしい色より、客観的に見て評価に満たない材料はシビアに落としていきました。日本の製品クオリティの維持に貢献している会社が認める染色を基準としていますから、お客様の目には見えないけれど、ハードルをしっかり越えたものということになります。

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▲染め色の代表格である藍、柿渋に加え、品質検査をクリアした綿花、鉄粉を使って染めたオリジナル商品。

「立花テキスタイル研究所」が目指すもの

染料材料の開発・商品化という道のりを経て、次は綿花などの栽培を自分たちで行いたいという思いもあり、新里さんは「NPO法人 工房尾道帆布」の事業部から独立。2013年に「立花テキスタイル研究所」を設立しました。

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「現在、スタッフは、尾道帆布展に参加した後輩や地元の人を含めた4人です。ミシン掛けや経理など、近所の方が手伝いたいといってきてくれて、在宅の縫子さんも島内と尾道市内にいます。講演などで出る用事がなければ、普段はエプロンづくりが私の担当です」

工場で帆布を購入し商品を製造しながら、現在、立花テキスタイル研究所で行っている主な事業は、次の3つ。綿花などの材料を自分たちで栽培すること。廃材を活用した染色材料の製造。そして、染め織りの伝統的な産業の復興。

「綿花栽培は、今年で10年目になります。私たちも綿花を育てていますが、今現在は耕作放棄地や後継者の問題を抱えている農家さんに、藍は完全に、綿花は9割方依頼して、仕事として栽培してもらっています」

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▲写真提供:新里カオリさん

「和綿は繊維が短いので、残念ながらそれだけで帆布は織れないんですね。枝葉も小さくて収穫量も少ないため、今は和綿と遺伝的に交配しないアップランドというアメリカ原産の綿も同時に栽培し、ブレンドしています。アップランドは繊維が長く、1本の木からとれる収穫量も多いんです。柿渋は話をしに行った柿農家さんが2年越しで商品開発してできたものなんですよ。

植物だけでなく、尾道の鉄鋼所から毎月2万トン廃棄される鉄粉をどうにかできないかと思い、媒染剤として使っていたんですが、少量しか使えないんですね。そしたら、鉄鋼所の方がこうやって使ったらどうですかってアドバイスをくれて、鉄粉プリントができたんです。

これは他にない技法だと思いますし、産廃を減らす目的で始めたものなので、企業などいろんな方が使ってくれたら嬉しいですね。聞かれれば、技術も教えます」

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▲軽そうに見えて、持ってみるとびっくりする重さ1キロの鉄粉。

草刈りや収穫など手作業で人手の要る作業も、ワークショップ形式にして問題を解消。今では羊の毛刈り体験や柿渋染めなども行い、遠方からファンが訪れるそう。都会の人にものづくりの楽しさや苦労、自然を体感してもらう機会をつくるのと同時に、尾道のPRにもつなげています。

移住10年目の島暮らし

国内外の仕事に奔走する新里さんですが、島での暮らしはとっても豊か。アメリカ人のパートナーと3年前に結婚し、海の見える750坪の広大な敷地に建つ、みかん納屋だった家屋を改装し、生活しています。

「この間まで七面鳥もいたんですけど亡くなってしまって、今は草刈り用にヤギと羊を飼っています。子ヤギが生まれたんですけど、ヤギって高いところや人間が好きで、ずっとついてきては背中をかがめるとジャンプしてくるんですよ。私は、一度飼って信頼関係が生まれた動物は、食べないって決めているんです」

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▲自宅で飼っている子ヤギの膝丸くん。写真提供:新里カオリさん

「畑は夫の担当。日本の自然農に惹かれてやって来て、広島大学の博士課程で環境経済学を勉強しています。つくった野菜を収穫しては、気まぐれに友だちの飲食店にお茶を飲みがてら行商へ。そういうのが彼の気質に合ってるみたいです。お肉も畑の中に箱罠を置いて猪を獲ったりして、買うことはないですね。猟友会に入ってさばき方を習ったので、自分でさばきます」

そんな向島での豊かな生活を自身のラジオ番組「新里カオリのうららか日曜日」(RCC中国放送)でも発信中。改めて、移住と島暮らしについてどう感じているか伺いました。

「地元の人は、私たちが移住してここに暮らしていることを『本当に楽しいの?』 って今でも少し疑問に思ってるみたいなんですよ。でも、私にとってはメリットばかりなんです。

私たちは耕作放棄地を無償に近いかたちで使っていますが、東京の友人は月2万円で畑を借りていると聞きます。都会ではお金持ちしかエコってできないんですよね。ここだと、染色の素材はすぐそばにありますし、海のもの山のもの、食べ物が美味しくて、人とのつながりも大事にできる。労力は要りますが、暮らしも仕事も心底楽しんでいます。

移住の場所もかたちもいろいろある中で、尾道はアクセスも便利で、関東での仕事に片足をつっこんでいても来られるところで。私みたいに割と弱気な移住者にはぴったりだなって(笑)

移住して思うのは、尾道ってコミュニティがすごくしっかりしていて、情報交換が活発なんです。もともと商人の町ですから、移住してきた人にはちゃんと経済活動に関わってもらいたいですし、地元の人とトラブルになってほしくないので、移住者である私たちがサポートをすることもあります」

仕事に自分がついていったら、自然な流れで島暮らししていた、というのが新里さんの移住ストーリー。人間も動植物も自然なかたちでつながり合い、生まれてから命が果てるまでを見届ける深い愛情が、新里さんの仕事と暮らしには一貫してありました。

生産と消費を繰り返し、地球や環境に負荷をかける存在であるのが人間ならば、知恵を絞り持続可能な方向へと舵を取る役目も人間にあるのだと、考え方や行動から気づかされたインタビュー。

自分にできることから暮らし方を意識し、視点を変えて周りを見回してみると、地域やあなたにとって、さらにはつながる地球にとっての宝ものが見えてくるかもしれません。

文:前田 亜礼
写真:重松美佐

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